
佐野眞一「東電OL殺人事件」「東電OL症候群」、桐野夏生「グロテスク」と、東電OL殺人関係の書籍を立て続けに読んでみた。東電OL殺人事件は1997年で、今更なぜと思われるかもしれないが、たまたま積読状態にあった佐野の本を手にするやいなや、はまってしまったのである。東電OL殺人事件はもはや風化されつつあるが、当時は、エリート総合職のOLの夜の顔が娼婦だったということで世間の耳目を掻き立てた。そして、殺された被害者のプライバシーが週刊誌などによって暴かれたが、佐野の作品も、その延長線上にあると言えなくもない。
佐野の著作は文句なく力作だが、不満な点がないわけでもない。それは、あまりレトリックに走りすぎ、余計な記述が多すぎるという点だ。事実だけを知りたい読者にとって、4割ぐらい無駄な読書につきあわされることになる。佐野は、元々ジャーナリストでなく、編集者出身なため、文学的修辞に凝るのはわからぬでもないが、少し度を越している。例えば、被害者(東電OL)が土地(渋谷円山町)の磁場に引き寄せられたなどと言って、円山町のラブホテル街のオーナーには岐阜県のダム建設によって水没した村出身の者が多いことを挙げ、ダム建設―東電―東電OLという符合に慄然とするのである。しかし、渋谷が被害者の通勤路にあることを考えれば、この地を選んだのは至極当然なことに思える。
私もレトリック好きで、偶然の一致(ユングのシンクロニシティ)に興味を持っており、佐野とは極めて近い体質だと思うが、その私ですら閉口する個所が他にもたくさんある。一番呆れたのは、相当の時間と労力をかけて、被害者の墓を調べ上げた挙句、その戒名に「室」という文字があることに特別な意味をもたせようとしているくだりである。被害者の墓を探す理由がまず分からないし、もし見つかっても、この程度の「収穫」しか得られないのであれば、あえて記事にしないのが物書きとしての礼節であろう。
このように難癖をつけたくなる点は多々あるが、その後、本事件の被告人であるネパール人のゴビンダ氏の冤罪が指摘されるようになった背景には、佐野の本の影響が大きいように思う。その功績は、高く評価できよう。
次に、「グロテスク」だが、これは東電OL殺人事件を題材に取った桐野夏生の小説である。小説の語り手は、被害者のモデルと思われる女性の高校時代の同級生である。彼女は大学卒業後、区役所でアルバイトをするという平凡な毎日を送っているが、その内面は被害者以上に狂気をはらんでいる。そして、他の登場人物については作中で、名前が明かされていくのに対し、語り手に関してだけは、不自然な作為を使ってまで最後まで隠し通す。作者の意図は、語り手に名を与えぬことによって、一般人称としての性格をもたせようとしているのではないか。つまり、外観上平凡な女性の内面に狂気が宿るというのはけして異常なことではなく、被害者は単にその狂気を解放したにすぎない、ということである。
このような見方は、佐野と対照的である。佐野は、被害者を現代社会の歪みが凝縮し具象化した堕天使的存在と見なし、その破滅的な生きざまに対し共感どころか、尊崇の念すら抱いている。一方、桐野は、被害者を物語の主人公ではなく脇役へと押しやり、有名大学付属女子高というストレスの強い環境の中で人格が破壊された一事例として淡々と描いている。桐野が被害者に対し冷ややかなのは同性だからという向きもあろうが、私はむしろ桐野の見方に近く、被害者の行動に社会学的ないし精神病理学的な意味を過剰にもたせることには反対である。敬慕する父親に早く死なれ、拒食症でもあった被害者に、心の病がなかったとは言えまいが、それは娼婦になったことの一つの要因に過ぎず、大半の理由は彼女なりの合理性の発露だったのではあるまいか。
警察は銀行口座残高を公表してないが、娼婦として稼いだ額は1億円は下るまいと、佐野は推測している。もし被害者がインフォマニアで、かつ結婚願望が希薄な女性であったとしたら、「趣味と実益」ではないが、アフターファイブに売春するというのは、それなりに合理的な行動ではなかったか。
同様の性癖のある男の場合、風俗に走るだろうが、極端な吝嗇家でもあった彼女は、ホストに金を貢ぐこともできなかったであろう。ホストにはまって会社も首になり、無一文となってホームレスになれば、破滅的と言えるだろうが、ダブルワークで老後の資金を着々と蓄えていたのであるから、破滅には値しない。このような行動が異常視されるのはむしろ、常識という不合理性の側にあるのであって、聡明な彼女は、常識を意に介さず合理性のみを追求することができた、ということに過ぎぬのではないか。
昔、シモーヌ・ヴェイユがスペイン人民戦線に参加するため売春をしたというエピソードが、左翼の若者の間で美談として語られたことがある。正しい目的のために体を汚すことも辞さないということは崇高な行為として、若者の琴線を揺さぶったのである。目的は異なれど、売春を目的のための手段として捉えた点において、両者にそれほど隔たりはないのではないか。
ところで、「グロテスク」の最終章は、謡曲を彷彿とさせる鬼哭啾啾たる世界である。しかし、文章がそれについていない感がある。これは作者の力量不足というより、現代日本語の貧困ないし限界という気がしないでもない。本作品は泉鏡花賞を取ったと言うが、鏡花なら、このイメージをもっと存分に表現できたはずである。しかし、それはおそらく古典的教養や語彙によるものであろう。このような世界をもっと上手に描ける現代の作家が他にいるだろうか。浅田次郎か、京極夏彦の名が思い浮かぶくらいである。
いろいろ書いたが、「グロテスク」はやはり傑作だと思う。日本の作家で、ここまで人間の悪意に踏み込んで、心の襞の裏側まで描きこんだ者を他に知らない。
ただ、一つ気になった点がある。それは、被告人であるチャンの描き方についてである。実際の事件では、被告人はネパール人だが、小説では中国人となっている。そしてこの作品は、チャンが限りなく黒に近いという印象を与えている。
供述調書としてチャンの半生が長々と語られるのだが、私はこの章全体が余計だったのではないかと考える。ゴビンダ氏の有罪が確定したとは言え、これからまだ再審査請求もあるのだから、大した根拠もなく、作り話として被告人をこのような設定にするというのは、不用意と言う他ない。事件を、小説でしか知ることのない読者に、予断を与えてしまうことになるからである。作家は、作品の社会的影響力にまで配慮する義務があるはずだが、それが欠けていたのではなかろうか。
電車で「東電OL殺人事件」を読んでいて、渋谷に到着した時、ふと思いついて、事件現場に行くことにした。すでに午後11時を回っており、殺害があった時刻に近かった。渋谷から道玄坂を上り、神泉の駅近くにまで辿り着くと、現場のアパートはすぐに見つかった。驚いたことに14年の時を経て、古ぼけた状態のまま、名前を変えることもなく、その建物はそこにあった。その光景は、あたかも事件の風化を拒んでいるかのように見えた。
佐野の著作は文句なく力作だが、不満な点がないわけでもない。それは、あまりレトリックに走りすぎ、余計な記述が多すぎるという点だ。事実だけを知りたい読者にとって、4割ぐらい無駄な読書につきあわされることになる。佐野は、元々ジャーナリストでなく、編集者出身なため、文学的修辞に凝るのはわからぬでもないが、少し度を越している。例えば、被害者(東電OL)が土地(渋谷円山町)の磁場に引き寄せられたなどと言って、円山町のラブホテル街のオーナーには岐阜県のダム建設によって水没した村出身の者が多いことを挙げ、ダム建設―東電―東電OLという符合に慄然とするのである。しかし、渋谷が被害者の通勤路にあることを考えれば、この地を選んだのは至極当然なことに思える。
私もレトリック好きで、偶然の一致(ユングのシンクロニシティ)に興味を持っており、佐野とは極めて近い体質だと思うが、その私ですら閉口する個所が他にもたくさんある。一番呆れたのは、相当の時間と労力をかけて、被害者の墓を調べ上げた挙句、その戒名に「室」という文字があることに特別な意味をもたせようとしているくだりである。被害者の墓を探す理由がまず分からないし、もし見つかっても、この程度の「収穫」しか得られないのであれば、あえて記事にしないのが物書きとしての礼節であろう。
このように難癖をつけたくなる点は多々あるが、その後、本事件の被告人であるネパール人のゴビンダ氏の冤罪が指摘されるようになった背景には、佐野の本の影響が大きいように思う。その功績は、高く評価できよう。
次に、「グロテスク」だが、これは東電OL殺人事件を題材に取った桐野夏生の小説である。小説の語り手は、被害者のモデルと思われる女性の高校時代の同級生である。彼女は大学卒業後、区役所でアルバイトをするという平凡な毎日を送っているが、その内面は被害者以上に狂気をはらんでいる。そして、他の登場人物については作中で、名前が明かされていくのに対し、語り手に関してだけは、不自然な作為を使ってまで最後まで隠し通す。作者の意図は、語り手に名を与えぬことによって、一般人称としての性格をもたせようとしているのではないか。つまり、外観上平凡な女性の内面に狂気が宿るというのはけして異常なことではなく、被害者は単にその狂気を解放したにすぎない、ということである。
このような見方は、佐野と対照的である。佐野は、被害者を現代社会の歪みが凝縮し具象化した堕天使的存在と見なし、その破滅的な生きざまに対し共感どころか、尊崇の念すら抱いている。一方、桐野は、被害者を物語の主人公ではなく脇役へと押しやり、有名大学付属女子高というストレスの強い環境の中で人格が破壊された一事例として淡々と描いている。桐野が被害者に対し冷ややかなのは同性だからという向きもあろうが、私はむしろ桐野の見方に近く、被害者の行動に社会学的ないし精神病理学的な意味を過剰にもたせることには反対である。敬慕する父親に早く死なれ、拒食症でもあった被害者に、心の病がなかったとは言えまいが、それは娼婦になったことの一つの要因に過ぎず、大半の理由は彼女なりの合理性の発露だったのではあるまいか。
警察は銀行口座残高を公表してないが、娼婦として稼いだ額は1億円は下るまいと、佐野は推測している。もし被害者がインフォマニアで、かつ結婚願望が希薄な女性であったとしたら、「趣味と実益」ではないが、アフターファイブに売春するというのは、それなりに合理的な行動ではなかったか。
同様の性癖のある男の場合、風俗に走るだろうが、極端な吝嗇家でもあった彼女は、ホストに金を貢ぐこともできなかったであろう。ホストにはまって会社も首になり、無一文となってホームレスになれば、破滅的と言えるだろうが、ダブルワークで老後の資金を着々と蓄えていたのであるから、破滅には値しない。このような行動が異常視されるのはむしろ、常識という不合理性の側にあるのであって、聡明な彼女は、常識を意に介さず合理性のみを追求することができた、ということに過ぎぬのではないか。
昔、シモーヌ・ヴェイユがスペイン人民戦線に参加するため売春をしたというエピソードが、左翼の若者の間で美談として語られたことがある。正しい目的のために体を汚すことも辞さないということは崇高な行為として、若者の琴線を揺さぶったのである。目的は異なれど、売春を目的のための手段として捉えた点において、両者にそれほど隔たりはないのではないか。
ところで、「グロテスク」の最終章は、謡曲を彷彿とさせる鬼哭啾啾たる世界である。しかし、文章がそれについていない感がある。これは作者の力量不足というより、現代日本語の貧困ないし限界という気がしないでもない。本作品は泉鏡花賞を取ったと言うが、鏡花なら、このイメージをもっと存分に表現できたはずである。しかし、それはおそらく古典的教養や語彙によるものであろう。このような世界をもっと上手に描ける現代の作家が他にいるだろうか。浅田次郎か、京極夏彦の名が思い浮かぶくらいである。
いろいろ書いたが、「グロテスク」はやはり傑作だと思う。日本の作家で、ここまで人間の悪意に踏み込んで、心の襞の裏側まで描きこんだ者を他に知らない。
ただ、一つ気になった点がある。それは、被告人であるチャンの描き方についてである。実際の事件では、被告人はネパール人だが、小説では中国人となっている。そしてこの作品は、チャンが限りなく黒に近いという印象を与えている。
供述調書としてチャンの半生が長々と語られるのだが、私はこの章全体が余計だったのではないかと考える。ゴビンダ氏の有罪が確定したとは言え、これからまだ再審査請求もあるのだから、大した根拠もなく、作り話として被告人をこのような設定にするというのは、不用意と言う他ない。事件を、小説でしか知ることのない読者に、予断を与えてしまうことになるからである。作家は、作品の社会的影響力にまで配慮する義務があるはずだが、それが欠けていたのではなかろうか。
電車で「東電OL殺人事件」を読んでいて、渋谷に到着した時、ふと思いついて、事件現場に行くことにした。すでに午後11時を回っており、殺害があった時刻に近かった。渋谷から道玄坂を上り、神泉の駅近くにまで辿り着くと、現場のアパートはすぐに見つかった。驚いたことに14年の時を経て、古ぼけた状態のまま、名前を変えることもなく、その建物はそこにあった。その光景は、あたかも事件の風化を拒んでいるかのように見えた。
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