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行政書士のプロローグ & モノローグ

法律、経済、文化、福祉、雑談etc. 

東電OL殺人

佐野眞一「東電OL殺人事件」「東電OL症候群」、桐野夏生「グロテスク」と、東電OL殺人関係の書籍を立て続けに読んでみた。東電OL殺人事件は1997年で、今更なぜと思われるかもしれないが、たまたま積読状態にあった佐野の本を手にするやいなや、はまってしまったのである。東電OL殺人事件はもはや風化されつつあるが、当時は、エリート総合職のOLの夜の顔が娼婦だったということで世間の耳目を掻き立てた。そして、殺された被害者のプライバシーが週刊誌などによって暴かれたが、佐野の作品も、その延長線上にあると言えなくもない。

佐野の著作は文句なく力作だが、不満な点がないわけでもない。それは、あまりレトリックに走りすぎ、余計な記述が多すぎるという点だ。事実だけを知りたい読者にとって、4割ぐらい無駄な読書につきあわされることになる。佐野は、元々ジャーナリストでなく、編集者出身なため、文学的修辞に凝るのはわからぬでもないが、少し度を越している。例えば、被害者(東電OL)が土地(渋谷円山町)の磁場に引き寄せられたなどと言って、円山町のラブホテル街のオーナーには岐阜県のダム建設によって水没した村出身の者が多いことを挙げ、ダム建設―東電―東電OLという符合に慄然とするのである。しかし、渋谷が被害者の通勤路にあることを考えれば、この地を選んだのは至極当然なことに思える。
私もレトリック好きで、偶然の一致(ユングのシンクロニシティ)に興味を持っており、佐野とは極めて近い体質だと思うが、その私ですら閉口する個所が他にもたくさんある。一番呆れたのは、相当の時間と労力をかけて、被害者の墓を調べ上げた挙句、その戒名に「室」という文字があることに特別な意味をもたせようとしているくだりである。被害者の墓を探す理由がまず分からないし、もし見つかっても、この程度の「収穫」しか得られないのであれば、あえて記事にしないのが物書きとしての礼節であろう。
このように難癖をつけたくなる点は多々あるが、その後、本事件の被告人であるネパール人のゴビンダ氏の冤罪が指摘されるようになった背景には、佐野の本の影響が大きいように思う。その功績は、高く評価できよう。

次に、「グロテスク」だが、これは東電OL殺人事件を題材に取った桐野夏生の小説である。小説の語り手は、被害者のモデルと思われる女性の高校時代の同級生である。彼女は大学卒業後、区役所でアルバイトをするという平凡な毎日を送っているが、その内面は被害者以上に狂気をはらんでいる。そして、他の登場人物については作中で、名前が明かされていくのに対し、語り手に関してだけは、不自然な作為を使ってまで最後まで隠し通す。作者の意図は、語り手に名を与えぬことによって、一般人称としての性格をもたせようとしているのではないか。つまり、外観上平凡な女性の内面に狂気が宿るというのはけして異常なことではなく、被害者は単にその狂気を解放したにすぎない、ということである。
このような見方は、佐野と対照的である。佐野は、被害者を現代社会の歪みが凝縮し具象化した堕天使的存在と見なし、その破滅的な生きざまに対し共感どころか、尊崇の念すら抱いている。一方、桐野は、被害者を物語の主人公ではなく脇役へと押しやり、有名大学付属女子高というストレスの強い環境の中で人格が破壊された一事例として淡々と描いている。桐野が被害者に対し冷ややかなのは同性だからという向きもあろうが、私はむしろ桐野の見方に近く、被害者の行動に社会学的ないし精神病理学的な意味を過剰にもたせることには反対である。敬慕する父親に早く死なれ、拒食症でもあった被害者に、心の病がなかったとは言えまいが、それは娼婦になったことの一つの要因に過ぎず、大半の理由は彼女なりの合理性の発露だったのではあるまいか。
警察は銀行口座残高を公表してないが、娼婦として稼いだ額は1億円は下るまいと、佐野は推測している。もし被害者がインフォマニアで、かつ結婚願望が希薄な女性であったとしたら、「趣味と実益」ではないが、アフターファイブに売春するというのは、それなりに合理的な行動ではなかったか。
同様の性癖のある男の場合、風俗に走るだろうが、極端な吝嗇家でもあった彼女は、ホストに金を貢ぐこともできなかったであろう。ホストにはまって会社も首になり、無一文となってホームレスになれば、破滅的と言えるだろうが、ダブルワークで老後の資金を着々と蓄えていたのであるから、破滅には値しない。このような行動が異常視されるのはむしろ、常識という不合理性の側にあるのであって、聡明な彼女は、常識を意に介さず合理性のみを追求することができた、ということに過ぎぬのではないか。
昔、シモーヌ・ヴェイユがスペイン人民戦線に参加するため売春をしたというエピソードが、左翼の若者の間で美談として語られたことがある。正しい目的のために体を汚すことも辞さないということは崇高な行為として、若者の琴線を揺さぶったのである。目的は異なれど、売春を目的のための手段として捉えた点において、両者にそれほど隔たりはないのではないか。

ところで、「グロテスク」の最終章は、謡曲を彷彿とさせる鬼哭啾啾たる世界である。しかし、文章がそれについていない感がある。これは作者の力量不足というより、現代日本語の貧困ないし限界という気がしないでもない。本作品は泉鏡花賞を取ったと言うが、鏡花なら、このイメージをもっと存分に表現できたはずである。しかし、それはおそらく古典的教養や語彙によるものであろう。このような世界をもっと上手に描ける現代の作家が他にいるだろうか。浅田次郎か、京極夏彦の名が思い浮かぶくらいである。

いろいろ書いたが、「グロテスク」はやはり傑作だと思う。日本の作家で、ここまで人間の悪意に踏み込んで、心の襞の裏側まで描きこんだ者を他に知らない。
ただ、一つ気になった点がある。それは、被告人であるチャンの描き方についてである。実際の事件では、被告人はネパール人だが、小説では中国人となっている。そしてこの作品は、チャンが限りなく黒に近いという印象を与えている。
供述調書としてチャンの半生が長々と語られるのだが、私はこの章全体が余計だったのではないかと考える。ゴビンダ氏の有罪が確定したとは言え、これからまだ再審査請求もあるのだから、大した根拠もなく、作り話として被告人をこのような設定にするというのは、不用意と言う他ない。事件を、小説でしか知ることのない読者に、予断を与えてしまうことになるからである。作家は、作品の社会的影響力にまで配慮する義務があるはずだが、それが欠けていたのではなかろうか。

電車で「東電OL殺人事件」を読んでいて、渋谷に到着した時、ふと思いついて、事件現場に行くことにした。すでに午後11時を回っており、殺害があった時刻に近かった。渋谷から道玄坂を上り、神泉の駅近くにまで辿り着くと、現場のアパートはすぐに見つかった。驚いたことに14年の時を経て、古ぼけた状態のまま、名前を変えることもなく、その建物はそこにあった。その光景は、あたかも事件の風化を拒んでいるかのように見えた。


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「容疑者殺害」は自己撞着

ウサマ・ビンラディン容疑者が米軍特殊部隊により殺害された。この時、ビンラディン容疑者は武器を持っていなかったという。オバマ大統領は緊急演説を行い、「正義は遂行された」とアピールし、世界もこのことを好意的に受けとめた。その結果、大統領の支持率は上がり、ドルは回復した。
一般家庭に潜伏し、しかも丸腰のビンラディン氏に対して、殺害より他に手立てがなかったというのは到底信じがたい。ゲリラ戦ならともかく、一般住居に家族と一緒に住んでいる者を、高度に訓練を受けた特殊部隊が身柄拘束できないわけがない。初めから逮捕するつもりなどなく、殺すつもりであったことは明白である。
容疑者は逮捕後、適正な手続(デュー・プロセス)を経て裁判にかけられ、判決に基づき刑が執行される、というのは法の常識であろう。国際法がどうなっているかは知らぬが、「容疑者殺害」などという言葉は、法律上明らかに自己撞着である。サダム・フセインですら、逮捕後裁判にかけられた上で処刑されたのである。
このような正当な法的手続きが、ビンラディン容疑者の場合に限ってなにゆえ行われなかったのか? それは、単純に口封じとしか考えられない。9.11同時多発テロの後、アルカイダが犯行声明したわけでもなく、また米国当局は、ビンラディン容疑者が、この事件に直接命令を下した証拠はつかんでいなかったと言われる。1) ※1
ビンラディン氏が9.11に関与したのでないかという推測の下に、アフガニスタンのタリバン政権に対して同氏とアルカイダの首謀者の引渡しを要求し、それを拒んだからと言って攻撃を加えた。さらにアルカイダを支持するフセイン政権に対して大量破壊兵器を保有しているという疑いにより、イラク戦争を引き起こした。今更、ビンラディン容疑者が9.11と無関係だったなどということになれば、アメリカ政府の面目は丸潰れとなり、国際的信用を失うことは免れないであろう。

さらに9.11事件そのものに対しても、重大な疑惑がある。これについては、民主党の藤田幸久議員(現参議院財政金融委員長)が、参議院外交防衛委員会で石破茂防衛大臣(当時)に対して、アルカイダの単独犯行説に疑問ありとして質問を行っている(2008年4月24日)。その後、藤田議員はその主張を著書にまとめている。1)
同著は、9.11事件に対して次のような疑問を呈している。

①  航空機(ボーイング767)が世界貿易センタービルの横っ腹に激突した際、ビルは物体の落下速度と同じ速さで崩落した。頑丈な鉄筋構造のビルが軽量化に心を砕いて設計された航空機にぶつけられたくらいで、このように脆くも倒壊するものだろうか。アメリカの多くの科学者も、この点に疑問を投げかけている。また、同ビル崩壊の映像は、解体工事における崩落シーンと酷似しており、ビルの底部に設置された起爆装置を爆発させた場合に、このような現象が起きる。そして実際、消防士の多くが爆発音を耳にしているが、ニューヨーク市は消防士の体験談を非公開にしている。
②  ハイジャックしたパイロットは飛行学校に半年間通い操縦方法を学んだというが、彼らが練習用に乗ったのはセスナ機であり、このような小型機とボーイング767のような大型機とでは、操縦方法の難易度において雲泥の差があり、半年間程度の飛行訓練で大型機の操縦は不可能だという。さらに、空からはつまようじ程度にしか見えぬ高層ビルに衝突させることは、ベテランパイロットですら至難の技と言われており、これは、神風特攻隊の大半が海に突っ込んだことからもうかがえる。

同書では、他にも9.11事件に関する様々な疑問点が指摘されている。藤田議員の国会での追及に対する反応には賛否両論があり、岩見隆夫氏のように荒唐無稽(サンデー毎日)と切って捨てる者もあれば、寺島実郎氏(多摩大学学長、日本総研理事長)のように支持する者もいる。
また、同著に対しては山本弘氏(と学会会長)が、批判を寄せている。2)山本氏によれば、世界貿易センタービルの崩落メカニズムについては、和田章氏(東京工業大学名誉教授)によってすでに解明されており、決着済みだということである。要するに、同ビルの梁(トラス)はわずか500度で溶解するため、衝撃によって梁が4本の柱から外れ、全部の床が下にずれ落ちたというものだ。門外漢なのでコメントは避けるが、アメリカを代表する世界貿易センタービルにしては建築構造が脆弱すぎないだろうか。500度で溶解するということは、通常の火災でも崩落する可能性があるということか? これがこのビルに限った構造上の問題であるかについては触れてなかったが、アメリカでは、姉歯問題のように建築士の責任を追及したり、建築基準を見直したりする動きはないようである。また、消防士の聞いた爆発音については、人が落下した時の衝撃音であるとし、操縦技術の問題については言及されていなかった。
藤田氏は、岩見氏らの陰謀説という批判に対して、「陰謀とは言ってない」と反論しているが、一方で、自身のHPの中で、孫崎亨氏(駐イラン大使、前防衛大学校教授)の「おそろしい話しであるが、同時多発テロ事件が生じたとき、国防省、国務省の幹部は第二の真珠湾攻撃を歓迎する立場の人々が占めていた。勿論ブッシュ大統領も承知していただろう」という発言を引用している。
真珠湾攻撃に関しては、昔からアメリカは事前に知っていたのだという説があるが、これは何も日本人の間での風説ではなく、アメリカ議会で過去に大問題になっている。日米開戦前、アメリカはウィリアム・フリードマンを中心とするチームが、パープル(紫暗号:日本の外務省関係の暗号)解読に成功し日本が攻撃してくるであろうことを事前に予測していた。そのため、当時厭戦ムードの強かったアメリカの世論を、開戦に導くためにあえてハワイを見殺しにしたのではなないかという政府に対する疑いが高まり、議会から猛反発をくらった。その時の政府の言い分は、攻撃があることは知っていたが、ハワイと言う場所までは特定できていなかった、というものであった。3)
これを聞くと、戦争の大義を作るために、まず敵方に攻撃を加えさせるという行動原理が、アメリカという国家に内在しているのではないかとさえ疑いたくなってくる。もちろん、真珠湾攻撃は、対英米戦争反対論者であった山本五十六連合艦隊司令長官が、作戦を企画立案・実行したものである。4)しかし、東條英機が首相になってから、日米交渉の道を探ろうとしたにも関わらず開戦に至ってしまったのは、アメリカ側がそれを望み誘導したからに他ならない、といった見方をする者もいる。そして、「誘導」と「捏造」の差は紙一重であったことは、先の前田恒彦前特捜検事による証拠改ざん事件が教えてくれている。
ちなみに、9.11疑惑に関しては、藤田氏より先にベンジャミン・フルフォード氏が著書を執筆している。5)6)ベンジャミン・フルフォード氏と言えば、疑似科学や陰謀史観に深入りしすぎるきらいがあるが、彼の出発点は、不良債権と暴力団の関係を暴いたものである。7)8)私はかつてサービサーに勤務し、不良債権がヤクザに骨がらみになっている実態をこの目で見てきているので、日本のジャーナリストたちが手をつけられなかったこの問題に、あえて挑んだ勇気には敬意を表している。
今回のウサマ・ビンラディン容疑者の殺害に関して、我々日本人が一番思い出さなければならないのは、東京裁判であろう。東條英機がピストル自決をはかった時、弾は心臓から逸れたとは言え出血多量で死亡する恐れがあった。この時GHQは蘇生のために最善を尽くしている。そして、東條は、東京裁判の結果や刑務所の処遇に満足して死んでいったのではないかと思われる。巣鴨プリズンで死の直前、「(高位高官に登り詰め、陛下をお守りすることができて)自分ほど幸せな男はいない」と教誨師の花山勝友師に語っている。9)
この時に比べ、今回のアメリカの行動は、法と正義の観点からして、遥かに後退していると言わざるを得ない。しかも平和を希求しているはずのオバマ政権下においてである。オバマ大統領が、当初からこの作戦計画を容認していたとはけして思わないが、容認せざるをえない何らかの事情があったのではないか? 闇はますます深まってくるばかりである。


(文献)
1)藤田幸久編著  『9.11テロ疑惑国会追及 オバマ米国は変われるか』 クラブハウス 2009
2)と学会著 『トンデモ本の世界W』 楽工社 2009
3)R・W・クラーク著 新庄哲夫訳 『暗号の天才 ―ウィリアム・フリードマンの伝記-』新潮選書 1991
4)阿川弘之著 『山本五十六』 新潮社 1973
5)ベンジャミン・フルフォード著 『暴かれた9.11疑惑の真相』 扶桑社 2006
6)ベンジャミン・フルフォード著 『9・11テロ捏造―日本と世界を騙し続ける独裁国家アメリカ』 徳間書店 2006
7)ベンジャミン・フルフォード著 『日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日』 光文社ペーパーバックス 2002 
8)ベンジャミン・フルフォード著 『ヤクザ・リセッション さらに失われる10年』 光文社ペーパーバックス 2003
9)保阪正康著 『東条英機と天皇の時代』 文藝春秋 1979


(参考サイト)
※1 FBIはビンラディンが9.11に関与したとは言っていない    




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謡の会

私には、謡と言うちょっと変わった趣味があります。
もう習い始めてから、15年以上になりますが、才能がないせいか一向に上達しません。
先日、年に1回の発表会に参加してまいりました。
平均年齢はかなり高く、諸先輩に比べれば、私などまだひよっこにすぎません。みなさん謡のせいか、溌剌とした老後の人生を送っておられるようです。
写真は、最後に全員でやる「岩舟」の一シーンです。(ちなみに、私はカメラマンのため、写っておりません)



岩船

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裁判官は美人がお好き?

 栃木実父殺し事件という有名な裁判例がある。娘(当時29歳)が実父(当時53歳)から近親姦を強いられ、5人の子どもを産ませられた上、監禁され、思い余った娘は父親を殺害してしまった。当初、刑法200条の尊属殺人によって起訴されたが、第一審は尊属殺重罰規定は憲法14条1項の平等規定に反するとして、過剰防衛を認定して、刑は免除された。結局最高裁まで争われ、最高裁は、尊属殺の重罰規定を違憲と判断し、通常の殺人罪を適用し、懲役2年6月、執行猶予3年を言い渡した(昭和48年4.4)。この判決は、平成7年の刑法改正における200条の削除につながったと言われている。
 実はこれには、とんでもない後日談がある。この時の最高裁の判事の一人が退官後、ある講演でこの裁判の思い出について語ったとき、被告人が減刑になったのは彼女が美人だったからだという爆弾発言をしたのだ。司会者が、慌てて止めにかかったというが、後の祭りであった。高齢のせいかと思われるが、恐らく当時の本音を語ったものであろう。そして、この発言には、裁判制度のもつ本質的側面が見え隠れしているように思えてならない。
 また、女性判事は女性の被告人に厳しい判決を下す傾向があるという噂もある。被告人の容貌の判決に与える影響についてという実証的研究を誰かやってみると面白いのではないか(恐らくだれもいないだろうが)。
 山の神様は女神であるため、女子の入山を嫌い、そのため女人禁制の山があるのだという風説がある。神様でさえ依怙贔屓するのだから、神ならぬ人間が同じことをしたとしてもけして責められないであろう。
 人間の非合理的感情は、ちょっとやそっとの訓練では払拭できないであろうと思われるが、このエピソードはそのことを如実に物語っている。そして、裁判において、人間感情は排除すればよいというものでもなく、被告人の不幸な生い立ちに同情したり、被害者感情に共感することはむしろ必要なプロセスである。しかし、このような必要な感情と排除しなければならない感情は渾然一体となっているため、それを選り分けるのは恐らくプロの裁判官と言えども至難の業である。
 しかし、何が何でも摘出し絶対に排除しなければならない非合理的感情もある。裁判官の出世欲であり、それと表裏をなす自己保身欲である。これが実存することは、心ある元判事たちによって語られている。そして、検察の求刑に逆らいたくない、あるいは逆らえば出世が断たれるといった裁判官の個人的感情が数多くの冤罪を招いていたことは疑いない。
 裁判員制度の成否は、このような裁判官の感情を抑制しうるかにかかっている。今後の裁判員裁判に注目していきたい。
 

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実感民法・不法行為

 民法は、トラブル解決の方法について定めた法律である。その解決法はほとんどがお金であり、唯一の例外が名誉棄損の謝罪広告のみである(民法723条)。名誉棄損だけは、さすがに金銭だけでは解決し得ないと考えられたわけだ。しかし、これ以外はすべてお金で決着をつけようとする。地獄の沙汰も金次第、札びらで頬を叩く、まさにそんな世界である。
 そして、このように金銭で解決することを、「損害賠償」という。損害賠償の原因は、大きく分けて二つある。一つは、「債務不履行」である。要するにこれは、契約違反のことであり、「約束は守れよ」、「借りた金は返せよ」という話だ。そして、もう一つが、ここで取り上げる「不法行為」である。
 まず、条文から眺めてみよう。

民法709条
 故意または過失によって他人の権利又は法律上保護される権利を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

「えっ、たったこれだけ?」と感じる人が多いと思うが、実際これだけなのである。不法行為は、喧嘩、交通事故、医療過誤など様々なトラブルに関係し、事件数も膨大な数に及ぶはずであるが、それがこのようにたった一言の、しかも抽象的な文言によって定義されている。だから初学者にとっては、非常にわかりにくい。
 まず、「不法」という言葉がわかりずらい。違法とどこが違うのか? 「不法」というからには、何かの法律に抵触したのだろうが、その法律がわからない。不法行為の代表的なものは交通事故だが、信号や標識を守らなければならないという法律はあっても、交通事故そのものを起してならないという法律は存在しない。もしそんな法律があったとしても、事故は起こるときには起きてしまうものだから、詮無いことである。不倫と比較すれば、不倫は、既婚者は浮気をしてはならないという道徳律に反する行為であるので、その意味は明快である。英語では、不法行為はwrongful act、つまり「悪い行為」だが、この方がわかりやすい。「権利を侵害した」をそのまま持ってくれば加害行為となり、さらにわかりやすくなると思われるのだが、なぜそうしないのか理解に苦しむ。
「権利を侵害した」とは、人を、精神的、肉体的、または財産的に傷つけたということを意味するのであろう。ただ上記のように、具体的にどのように傷つけた時に、不法行為と認定されるかについての条文はなく、漠然と抽象的に述べられているだけである。だから、不法行為と認定される可能性の範囲はかなり広いだろう、ということが推測される。
 債務不履行の場合、当事者同士の関係は、債権者と債務者である。つまり、「金返せ」と言う側と返さなければならない側である。しかし、不法行為の場合、最初トラブルが起きた時は、被害者と加害者という形で立ち現れるが、裁判になる過程で、被害者・原告・債権者 VS 加害者・被告・債務者という関係に変わっていく。
 この条文を見て、「刑法上の罰はないの?」と思う人も多いだろう。もちろん、不法行為の一部は刑事事件になっていく。不法行為という網によってすくい上げられた事件がふるいにかけられ、残った一部が刑事事件になるのである。刑法は犯罪のカタログであり、刑事事件になるためには、その中のどれかに当てはまらなければならない。
 それでは、典型的な不法行為の一つである交通事故の例で考えてみよう。交通事故における死亡事故の年間数は約5000件である。もしドライバーが人をはねてしまい、不幸にもその人がなくなってしまったとする。しかし、通常の場合それは民事事件であり、年間5000件もある死亡事故の一つにすぎず、それに対していちいち警察は刑事事件としては関与しない。
 しかし、この時もしドライバーが飲酒運転していたらどうであろう。この行為は、危険運転致死傷罪として犯罪のカタログである刑法に明記されているので(刑法208条の2)、刑事事件となる。さらに、もしこのドライバーが亡くなった人に恨みを抱いており、故意にひき殺したとしたらどうであろう。これは、殺人罪(刑法199条)という重大犯罪として取り扱われることになる。
 このように民事上の不法行為のうちで、悪質性の高い一部の事件だけが刑事罰の対象となるのだ。
 しかし、罰として刑事罰の方が損害賠償より重いとは、必ずしも言えない。先の危険運転致死傷罪で人をあやまって怪我させてしまい、実刑判決を受け、2、3年で交通刑務所から帰ってきたとき、1億円以上の損害賠償請求が待っていたとしたらどうであろう。この場合、刑事罰の方が損害賠償より重いとは言えないのではないか。
 不法行為による損害賠償の目的は、あくまで被害者救済である。しかし、加害者に資産がない場合は、裁判で勝訴しても、所詮絵に描いた餅に終わってしまう。交通事故の場合、こういった事態にならないようにするため、自賠責保険がある。しかし、それ以外のケースについては、保険制度がまだ十分ではないので、実際にどのくらい支払われているのかはわからない。ゆえに、被害者救済のために、国家がもっと手を差し伸べるべきだという議論もある。
 また、損害賠償を金銭賠償のみとし、謝罪とかいった他の要素をすべて切り捨ててしまったことが、果たして本当に合理的で正しかったのか、といった問題もある。不法行為の例として交通事故を挙げたが、遡って考えてみれば、一番普遍的なものは喧嘩であろう。その結果、人が精神的・肉体的に傷つけられたり、財産が奪われたり、物が壊されたりする。伝統的社会においては、喧嘩が起きた場合、村の長老が間に割って入って、手打ちをさせていた。日本では、鎌倉時代から、喧嘩両成敗という考え方が広がっていくが、これは復讐法を否定する合理的な方法であると、最近では再評価されている。人が人を傷つけた場合、単なる損害賠償よりも、伝統的社会において行われていた方法の方が有効なケースは多々あろう。そして、現実の裁判や調停においても、喧嘩両成敗的な手法が用いられることがばしばあるのではないか。日本で和解判決が多いのは、喧嘩両成敗の影響ではないかと私は疑っている。
 最近、裁判外紛争処理としてADRが着目され、平成16年にはADR法が成立した。ADRでは、紛争処理に際して、当事者同士の話し合いや心理的プロセスが重視される。実はこれは先祖がえりではないのか、と密かに思っているのである。




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