行政書士のプロローグ & モノローグ

法律、経済、文化、福祉、雑談etc. 

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「DEATH NOTE」はくだらない

 先日、映画「DEATH NOTE」の前編・後編を、テレビで見た。まだ、見たことのない人のために、ごく簡単なあらすじだけを紹介しておこう。
 高校生の夜神月(やがみらいと)は、ある日奇妙な黒いノートを拾う。それは、名前を書き込むと書かれた者が死ぬという、死神・リュークが落としたデスノートだった。月は、犯罪者が存在しない理想の世の中を作るため、犯罪者の名前を次々とノートに書き込んでいく。やがて、殺し屋(=Killer) の意味から、彼は「キラ(KIRA)」と呼ばれるようになり、多くの者たちが彼の正義感に共鳴し、崇拝するようになる。一方、事態を重く見たICPO(インターポール)は、謎の天才探偵L(エル)に依頼し、この事件解決のために動き出す。そして、キラとLの宿命の対決が始まる。

 ここではこの程度の紹介で十分かと思われるので、もっと知りたい方は本編をご覧頂きたい。
 「DEATH NOTE」では、夜神月も天才的な頭脳持ち主という設定になっており、探偵Lとキラこと月の頭脳を駆使した対決が物語の中心に据えられていく。しかし、夜神月がノートに書き込む犯罪者というのは、マスコミ発表に基づいて選ばれている。その中には冤罪事件もあるだろうし、実際に犯した罪に比べて重い判決を受けているケースもあるだろう。だが、そういうことは一切考慮されず、警察や裁判所の発表をただ鵜呑みにしているというのは、天才にしては、あまりに乱暴、かつ幼稚とは言えないだろうか。要するに、キラのやっていることは、単に刑罰を重くしているにすぎないのだ。
 しかし、問題はこのように単純なストーリー設定の作品が、何故多くの人々の心を捉えたか、という点であり、その社会的背景にこそ、私は興味がそそられる。

 これについて私は、思い当たらないふしがないわけではない。すなわち、多くの人々が、現在の刑罰に対して、手ぬるいという印象をもっているのではないか、ということである。
 例えば、わが国では、加害者の人権が重んじられる一方、被害者は十分な支援が受けられず、犯罪被害者の感情は軽視されている、ということが長い間言われ続けてきた。特に被害者家族の場合、刑事裁判にも参加できず、損害賠償も限定的にしか受けられず、被害者のために使われる予算は加害者のそれに比べ比較にならないほど微々たるものである。そのことに注目されるようになったのはつい最近のことであり、「犯罪被害者基本法」が成立したのが、平成16年のことである。
 刑罰を一律的に重くすればよいという発想の裏には、このように加害者利益と被害者利益の不均衡と、そのことに対する大衆の苛立ちが見え隠れするのではないか。もっと平たく言えば、このままでは被害者はやられ損・殺され損であり、バランスを取るためには、加害者により過酷な運命を背負わせねばならぬ、という原始的感情の噴出に他ならない。

 この感情については、もっと大きな観点から検討を加えることができる。
 評論家の呉智英は、穂積陳重の「復讐と法律」(岩波文庫)から引用し、蜂に攻撃を加えるとその蜂は攻撃した者を追いかけてくることから、復讐の起源は動物的本能にまで遡ることができると指摘している。また、バビロニアのハンムラビ法典の「目には目を歯には歯を」といった復讐法は、前近代には普遍的に存在した慣習法であり、今でもある部族社会では、ジープで人を轢くと、原住民がよってたかって轢いた者を押さえ込み、被害者が怪我した場所と同じ部位にタイヤをのせるという風習が残っている、と述べている。
 呉智英は、近代社会は、このような人類の根源的欲求である復讐心を否定し、公的制裁へと転換せしめたが、まだこの制度は十分に機能しておらず、そのための大衆の欲求不満が澱のように溜っている、といった趣旨のことを講演で述べている。そして、その解決策として、封建主義者を自称する彼は、「仇討ち制を復活すべし」と、冗談とも本気ともつかぬ口吻で語っていた。

 さらに、今日の社会的状況が、この作品に共感する者を増やしている、とは言えないだろうか。モラルハザードやアノミーを指摘する識者もいるが、私は、不定形で無方向的な破壊衝動が蔓延し、それがすでにオーバーフロー現象を起こしているのではないか、と感じている。都会では、足早に行く人々は、譲り合いの精神を忘れ、肩と肩とがぶつかり合っただけで一触即発になりかねない光景がしばしば見受けられる。
 閉塞した社会にあっては、破壊本能を満たすことがカタルシスを得るための唯一の手段であり、破壊の対象はなんでもいい。ゆえに、犯罪者をターゲットにすることが、欲求不満の人間にとって一番手っ取り早い。なぜなら、彼らに破壊衝動のはけ口を求めたとしても、その行為には大義名分があるので、免罪されるからだ。このような狂気の土壌が、すでに出来上がりつつあるのかもしれない。そしてこれは、差別のそれときわめて近似している。
 もちろんこれらは他人事で言っているつもりはなく、私自身の中にも同様の感情が発見される。

 しかし、私の意識の中には、キラとは明らかに異なる部分もある。すなわちそれは、もし自分がそのような超能力を獲得したら、警察発表を鵜呑みにするというような、馬鹿げた真似だけは絶対にしない、ということである。そのような能力は、法の網にかからない領域で暗躍している連中に用いてこそ正当化される、と考えるゆえだ。
 例えばそれは、巨大権力そのものが犯した犯罪である。最近は、検察や警察の犯罪がときおり取り沙汰されるが、これらの機関はマスコミにとっては、貴重な情報源であるがゆえに、徹底追及されることはけしてない。テレビや新聞でこの手のニュースを見る度、いつも切歯扼腕する思いを味わわされる。
 もう一つは、小悪党の犯罪である。彼らはアメーバのように、法の隙間をかいくぐって、尻尾をつかまれることは滅多にない。しかし、これらの中には、看過できぬほど悪質なものが結構あるのだ。

 成年後見が脚光を浴びるきっかけとなった事件に、埼玉県富士見市の認知症姉妹に対するリフォーム詐欺がある。80歳と78歳の認知症姉妹のもとに、16社もの悪質リフォーム業者が訪れ、家の補強金具や床下の換気扇など、約3600万円の不要な工事をさせられた。その際、例えば、床下に換気扇を設置しないと家の土台が腐ってしまうなどという、でたらめ話をもちかけられ、判断力の衰えた姉妹を食い物にしていた。そして、3000万円近くあった貯金をすべて使い果たし、さらに土地建物を担保に借金したため、自宅を競売にかけられそうになったが、これだけは富士見市がなんとか中止させた。結局、富士見市の申立てによって成年後見が開始され、その後の被害は食い止められた。
 今でも、この姉妹は、市の職員が訪ねて行くと、「今度はいくら払ったらいいんですか?」と尋ねるという。
 人間の悪鬼のような一面を覗かせられる事件であるが、私が最も許せないと感じるのは、その結末についてである。これだけマスコミで騒がれ、警察も関与したにもかかわらず、結局、戻ってきた金はごく一部にすぎず、しかも詐欺を働いた連中は、誰一人罰せられなく、今ものうのうと暮らしているというのである。
 これを聞き、悪事を働いたら連中と、それに対して何の制裁も加えられない社会の仕組み対して、憤りがこみ上げてきた。これだけの犯罪を犯しても何の刑罰もないとすれば、彼らの一部はまた同じ事を繰り返すに違いない。いわばノーリスクで金儲けができるわけだから、これを繰り返すことは、ある意味経済合理性にかなっているのである。
 富士見市のリフォーム詐欺事件は、私にとり、成年後見の必要性を訴える事件というよりは、法律や制度の限界というものを思い知らされる事件であった。
 そしてその時、ふと思わず足下を探してしまったのである。一冊の古ぼけた黒いノートが落ちていないかと……。

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星野監督、これは氷山の一角です。

 数日前、日テレの「NEWS ZERO」で、こんなニュースが流れた。
 札幌市の食堂で、知的障害者の男女4人が13~30年もの間、無給で働かさせられていたという事実が発覚した。労働時間は毎日12時間で、男性の食事は朝昼2回、女性は3回、しかも調理場で立ったまま、残り物を食べていた。休日は月に2日、銭湯は週に1回のみ。しかも、障害者年金まで詐取されていた。
 札幌市も、その事実を知っていながら、保護するまでに8カ月も要した。問題の経営者は、現在行方不明とのこと。
 その日のコメンテーターの星野監督は、「これは事実でないでしょう。今の時代にこんなことがあるなんて考えられない。もし事実だとしたら、絶対に許せない」と大声を張り上げていた。

 この事件は、現在の軽度の知的障害者を取り巻く状況を、象徴的に示しているとは言える。すなわち、これに類した事件は、他でもたくさん起きているに相違ない、と言うことである。
「今の時代にこんなことがあるなんて考えられない」という星野監督の思いとは裏腹に、今の時代だからこそ、このような事件が頻発しているのではなかろうか。
 今日、行政指導や違法行為など何とも思わない悪徳経営者が跋扈し、企業社会の闇の部分がどんどん広がりつつある。彼らは、どこかの暴力団に属しているわけでもない、単なるモラル感の欠如した小悪党の群れである。そのような連中と、従順で疑うことを知らぬ知的障害者が遭遇したとき、このような事態が常に発生しかねないのである。
 例えば私は、次のような事例を知っている。
 30代半ばの、知的障害の男性で、現在、派遣会社に勤めている。彼の両親はすでに亡くなっており、親の死後、田舎から出てきたのだそうだ。その男性は、派遣会社の社員寮のようなアパートで暮らしているが、4人で借りているにもかかわらず、通常の一人分の家賃並みの法外な賃料を支払わされている。また、給料は、なぜか同僚の者が代わりに受け取りに行く。その男性は、「貯金が10万円貯まったので、そろそろ、家を買うのだ」と嬉しそうに語っていた。
 最近は、ネットカフェ難民の問題が報じられているが、住家を持たない若者を囲い込みタコ部屋のところに住まわせている派遣会社が増えているという話もある。
 知的障害の判定方法は、基本的にIQで、IQ70前後が健常者とのボーダーとされている。IQは、100を平均値として、偏差値と同じく釣鐘状のカーブを描くため、100に近いほど出現率も高い。したがって、IQ70前後の軽度知的障害者の数は、重度者に比べ遥かに多いのである。
 その中には、先の例のように、親に先立たれ、グループホームや入所施設にも入れず、年金も大した額は貰えず、そのため自活を余儀なくされているケースが当然含まれてくる。派遣業界、運送業など、単純肉体労働の仕事に、多くの軽度知的障害者が従事していることは、紛れもない事実なのだ。そして、彼らが悪質な経営者のもとに雇われた場合、カモにされてしまう危険性がきわめて高いのである。
 先月、毎日新聞でテレビドラマ「だいすき!!」のコメントをさせてもらった。もしあのドラマの主人公の知的障害者、柚子(ゆず)に、守ってくれる母親や弟、義理の妹がいなかった場合のことを考えたら、そのことは容易に想像がつく。

 成年後見は、判断能力が不十分な人のための制度であり、その対象には知的障害者も含まれている。後見人等の役割の一つに、判断能力が不十分な人を、悪質な連中から、法的に守ってやるということがある。具体的には、悪質商法などの被害にあった時、取消権を行使するという例がよく挙げられるが、労働搾取の事例はあまり聞いたことがない。成年後見の制度設計上、そのようなケースはそもそも初めから念頭に置かれていなかったのではなかろうか。過酷な労働条件で働かされ権利侵害を受けた後、雇用契約を取り消したところで何の解決にもならない。本人に代わって、経営者を訴えることぐらいはできるのであろうが、知的障害者の場合、この裁判は容易ではないはずである。
 この辺まで来ると、私の思考はストップしてくる。すなわち、問題点は指摘できても、これをいかにして解決するかということについては、私の能力を遥かに越えているからだ。このようなことを念頭に入れて、成年後見制度の機能を拡充することが可能なのか、あるいは、労働法の整備に任せるべきものなのか、その辺については全くわからない。いずれにせよ、労働現場で権利侵害を受けている知的障害者が、水面下にたくさんいるのだから、何らかの対策が必要だ。
 また、現時点でも、彼らの後見人になることによって、権利侵害を受けないようアドバイスすることは可能であろう。しかし、申立は誰がするのか、無産者に近い彼らにこの制度にかかる費用が負担できるのか、といった問題もある。このようなことを考えていくと、天涯孤独の軽度知的障害者が、この制度を利用する道は、絶望的に閉ざされているような気がしてくるのである。

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後見文化論

 わが国で成年後見制度がスタートしたのは、平成12年である。先進国では、この制度の利用率は、人口の1パーセント程度が見込まれているが、現在の、わが国における利用状況は、この目標値に遥かに届かない。わが国の成年後見制度は、ドイツの世話法やイギリスの持続的代理権授与法を参考にしたものであるが、ちなみに、ドイツでは、人口8000万人に対して、世話法の利用件数はすでに100万を突破している。
 わが国での利用が伸び悩んでいる主な理由としては、後見制度が導入されてまだ日も浅く、政府広報も不十分なため、まだ一般に浸透していないことが挙げられている。それももちろんあるだろう。しかし私はもう一つ、この制度に対する心理的抵抗のようなものがあるような気がしてならないのである。
 海外の新しい制度を受け入れる際には、伝統的思考様式や習慣などの相違によって「継受」の問題が起こりうる。そもそも成年後見制度は、個人主義・自己責任の原則を旨とする西洋の伝統的価値観からすれば、異端かつ例外的なものである。西洋社会においては、内心とか判断の自由は個人的存在の最後の拠り所となる、絶対かつ普遍的なものだからである。ゆえに、どのような事情があるにせよ、その領域を継続的に他者の手に委ねるということはけしてあってはならないことなのである。またその際、自己責任の原則が免除されるということについても同様である。
 その意味で、成年後見は西洋思想の臨界点に位置する制度と言えないこともない。ゆえに、個人主義に関する議論がそこまで煮詰まっていないわが国において、このような法制度が出てきた必然性が、十分に理解できていない可能性がある。すなわち、西洋的パラダイムの行き詰まりに生じる問題が、いま一つピンと来てないということだ。そして、このような文化的ギャップこそが、利用低迷の一因となっているという仮説が、まず一つ考えられうる。

 ところで、「後見」という言葉は、古語辞典にも載っているように、わが国に昔からあった用語である。ちなみに私は、謡を習っているが、能舞台には後見という役目がある
 わが国には昔から、後見制度があった。例えば、天皇がまだ幼く、判断力が未成熟な場合、有力家臣の一人が幼帝の後見人となって補佐するという慣行がしばしば行われていた。やがて、これは一人歩きしだし、藤原氏の摂関政治などのように、天皇が成人してもなお実権を握り続けるという弊害を残した。
 よく日本は二重王権制だなどとよく言われるが、制度上の建前は、征夷大将軍という官職は、あくまで天皇の一家臣にすぎない。だから、長き歴史に渡り武家政権の拠り所となった幕府も、広い意味では、摂関政治の延長線上にある、「後見制度」(もちろん、法律的な意味ではない)の一型とは言えないだろうか。
 鎌倉時代、将軍の一御家人である北条氏が、補佐役・執権として権力をほしいままにし、さらに、執権の補佐役である連署も登場した。つまり、天皇の後見役である将軍の後見(執権)の、そのまた後見である。ちなみに、執権という言葉は法律用語を連想させるし、連署の由来は、実際に、執権と連名で署名することから来ている。そして鎌倉期は、本格的な裁判制度が始まった時代であり、その殆どは本領安堵などの、不動産案件であった。
 私には比較文化論的に検証をする能力も時間もないが、ヨーロッパでは、王が無能だったり、王権が弱まった場合、その王を処刑し新たな者が権力の座につくというのが通例だったのではなかろうか。そして、この傾向は、中国や韓国など、他のアジアの国々にも見られるであろう。しかし、日本においては、今述べたような広義での後見制度が機能したため、後見人たちが交代することによって、長い間天皇制が維持されてきたのではないか。
 このような国家のグランドデザインは、当然、下々の文化にも波及してくる。例えば、江戸時代になれば、商家でも、後見役の番頭が事実上の経営権を握っていたりする。よく落語や笑い話に、仕事を全くしない遊び人のばか旦那やばか殿が登場するが、このような人々の存在が許されること自体、その前提には、無能な当主を補佐する有能な番頭や家老がいるということがある。このように判断力の未熟な者をベテラン政治家や経営者が、補佐すると言うのは、わが国においてはむしろ馴染み深い慣行であり、いわばお家芸と言っても過言ではなかったのではないか。
 私はここで、わが国の伝統的習慣と、西洋個人主義の臨界点に誕生した後見制度を同一視しようとしているのではない。しかし、似た面もある。例えば、政治のレベルでも、庶民レベルの場合でも、後見が行われた理由として、時の権力者の判断力が未熟だったということがあったはずである。なぜなら、彼らに判断能力が十分備わっていれば、後見人が出てくる余地などありえなかったからである。そして、外来制度が導入される場合、土着の類似した習慣と混淆していくというのは、ありうることなのである。
 そして、日本社会の場合、後見人が与えられた権限を逸脱し、当主を蔑ろにするという、悪しき事例が積み重なっていったに違いない。摂関政治しかり、院政しかり、武家政権しかりである。鎌倉幕府や江戸幕府に対して、錦の御旗を掲げて討幕運動が盛り上がった背景には、一後見人にすぎない幕府の専横に対する不満の爆発があったはずだ。また、庶民のレベルにおいても、このような後見人の権限踰越の事例は枚挙に遑がなかったことであろう。
 そして、現行の後見制度の場合においても、一番危惧されている点は、後見人が本来の権限を逸脱して、被後見人の権利を侵害し簒奪するということなのである。
 われわれが、この制度に対して今一つ信頼できない点があるとすれば、未知の制度に対する不安からではなく、むしろ過去にあった似たような制度を知りすぎているからに他ならないのではないか。すなわち、歴史の中で、後見とか補佐と称して、君主や当社の実権を奪ってきた数々の事例が、悪夢のように民族の集合知に刻印されているからなのではなかろうか。そして、後見人が不正を働いた事件が報道されるたびに、それが下意識の記憶と共鳴現象を起こし、不信感をつのらせているのではないだろうか。
 二重王権制はわが国固有の伝統であるにせよ、庶民レベルで、補佐役だった者が経営権を牛耳るなどという話は西洋でもよくあったはずだと思う諸氏もいることだろう。しかし、その場合でも、西洋社会では当主(すなわち、資本家)と経営権を代理する者たちとの間に、公正なルール(例えば株式会社)が作られていったのである。
 もちろん私自身、この仮説に確信があるわけではなく、学問的に立証するためには、調査的手法が必要であろう。しかし、少なくとも私の中では、後見制度のイメージは、ここで述べたような歴史的事象と重ねりあうのである。
 私は、どうもリーガルマインドに乏しいようで、真正面から法律の議論に臨むのはむしろ苦手で、思考がつい横道にそれてしまいがちある。後見制度に関する真面目な話を期待していた方には、お許しいただきたい。

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