行政書士のプロローグ & モノローグ

法律、経済、文化、福祉、雑談etc. 

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実感民法・不法行為

 民法は、トラブル解決の方法について定めた法律である。その解決法はほとんどがお金であり、唯一の例外が名誉棄損の謝罪広告のみである(民法723条)。名誉棄損だけは、さすがに金銭だけでは解決し得ないと考えられたわけだ。しかし、これ以外はすべてお金で決着をつけようとする。地獄の沙汰も金次第、札びらで頬を叩く、まさにそんな世界である。
 そして、このように金銭で解決することを、「損害賠償」という。損害賠償の原因は、大きく分けて二つある。一つは、「債務不履行」である。要するにこれは、契約違反のことであり、「約束は守れよ」、「借りた金は返せよ」という話だ。そして、もう一つが、ここで取り上げる「不法行為」である。
 まず、条文から眺めてみよう。

民法709条
 故意または過失によって他人の権利又は法律上保護される権利を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

「えっ、たったこれだけ?」と感じる人が多いと思うが、実際これだけなのである。不法行為は、喧嘩、交通事故、医療過誤など様々なトラブルに関係し、事件数も膨大な数に及ぶはずであるが、それがこのようにたった一言の、しかも抽象的な文言によって定義されている。だから初学者にとっては、非常にわかりにくい。
 まず、「不法」という言葉がわかりずらい。違法とどこが違うのか? 「不法」というからには、何かの法律に抵触したのだろうが、その法律がわからない。不法行為の代表的なものは交通事故だが、信号や標識を守らなければならないという法律はあっても、交通事故そのものを起してならないという法律は存在しない。もしそんな法律があったとしても、事故は起こるときには起きてしまうものだから、詮無いことである。不倫と比較すれば、不倫は、既婚者は浮気をしてはならないという道徳律に反する行為であるので、その意味は明快である。英語では、不法行為はwrongful act、つまり「悪い行為」だが、この方がわかりやすい。「権利を侵害した」をそのまま持ってくれば加害行為となり、さらにわかりやすくなると思われるのだが、なぜそうしないのか理解に苦しむ。
「権利を侵害した」とは、人を、精神的、肉体的、または財産的に傷つけたということを意味するのであろう。ただ上記のように、具体的にどのように傷つけた時に、不法行為と認定されるかについての条文はなく、漠然と抽象的に述べられているだけである。だから、不法行為と認定される可能性の範囲はかなり広いだろう、ということが推測される。
 債務不履行の場合、当事者同士の関係は、債権者と債務者である。つまり、「金返せ」と言う側と返さなければならない側である。しかし、不法行為の場合、最初トラブルが起きた時は、被害者と加害者という形で立ち現れるが、裁判になる過程で、被害者・原告・債権者 VS 加害者・被告・債務者という関係に変わっていく。
 この条文を見て、「刑法上の罰はないの?」と思う人も多いだろう。もちろん、不法行為の一部は刑事事件になっていく。不法行為という網によってすくい上げられた事件がふるいにかけられ、残った一部が刑事事件になるのである。刑法は犯罪のカタログであり、刑事事件になるためには、その中のどれかに当てはまらなければならない。
 それでは、典型的な不法行為の一つである交通事故の例で考えてみよう。交通事故における死亡事故の年間数は約5000件である。もしドライバーが人をはねてしまい、不幸にもその人がなくなってしまったとする。しかし、通常の場合それは民事事件であり、年間5000件もある死亡事故の一つにすぎず、それに対していちいち警察は刑事事件としては関与しない。
 しかし、この時もしドライバーが飲酒運転していたらどうであろう。この行為は、危険運転致死傷罪として犯罪のカタログである刑法に明記されているので(刑法208条の2)、刑事事件となる。さらに、もしこのドライバーが亡くなった人に恨みを抱いており、故意にひき殺したとしたらどうであろう。これは、殺人罪(刑法199条)という重大犯罪として取り扱われることになる。
 このように民事上の不法行為のうちで、悪質性の高い一部の事件だけが刑事罰の対象となるのだ。
 しかし、罰として刑事罰の方が損害賠償より重いとは、必ずしも言えない。先の危険運転致死傷罪で人をあやまって怪我させてしまい、実刑判決を受け、2、3年で交通刑務所から帰ってきたとき、1億円以上の損害賠償請求が待っていたとしたらどうであろう。この場合、刑事罰の方が損害賠償より重いとは言えないのではないか。
 不法行為による損害賠償の目的は、あくまで被害者救済である。しかし、加害者に資産がない場合は、裁判で勝訴しても、所詮絵に描いた餅に終わってしまう。交通事故の場合、こういった事態にならないようにするため、自賠責保険がある。しかし、それ以外のケースについては、保険制度がまだ十分ではないので、実際にどのくらい支払われているのかはわからない。ゆえに、被害者救済のために、国家がもっと手を差し伸べるべきだという議論もある。
 また、損害賠償を金銭賠償のみとし、謝罪とかいった他の要素をすべて切り捨ててしまったことが、果たして本当に合理的で正しかったのか、といった問題もある。不法行為の例として交通事故を挙げたが、遡って考えてみれば、一番普遍的なものは喧嘩であろう。その結果、人が精神的・肉体的に傷つけられたり、財産が奪われたり、物が壊されたりする。伝統的社会においては、喧嘩が起きた場合、村の長老が間に割って入って、手打ちをさせていた。日本では、鎌倉時代から、喧嘩両成敗という考え方が広がっていくが、これは復讐法を否定する合理的な方法であると、最近では再評価されている。人が人を傷つけた場合、単なる損害賠償よりも、伝統的社会において行われていた方法の方が有効なケースは多々あろう。そして、現実の裁判や調停においても、喧嘩両成敗的な手法が用いられることがばしばあるのではないか。日本で和解判決が多いのは、喧嘩両成敗の影響ではないかと私は疑っている。
 最近、裁判外紛争処理としてADRが着目され、平成16年にはADR法が成立した。ADRでは、紛争処理に際して、当事者同士の話し合いや心理的プロセスが重視される。実はこれは先祖がえりではないのか、と密かに思っているのである。




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マルクスだったらこう考える(的場昭弘、光文社新書)

 「蟹工船」が売れるマルクスリバイバルの風潮の中で、著者もまた人気急上昇中である。NHK教育テレビの「一週間 de 資本論」では司会を務め、また、「超訳『資本論』」 (祥伝社新書) を刊行し、いわば難解なマルクス主義思想を平易に噛み砕いて、格差社会に生きる若者たちに説いて回っている。
 本書は2004年に刊行されたもので、この路線に切りかえてからの、最初の仕事であると思われる。そのせいか、けっしてとっつきやすい本ではない。何しろ、実存主義や構造主義を踏まえマルクス主義について論じているのだから、ある程度の予備知識がなければ、いくら文章を平易にしたところで理解できるはずもない。
 NHKテレビで語っていたところによれば、資本主義のグローバル化によって、今ようやくマルクスを語りうる時代になってきた、ということだ。そして、社会主義革命や共産主義革命にしても近視眼的に見るのではなく、百年、千年のスパンで見ていかなければならないのだという。
 なぜグローバル化しなければ資本主義の本当の意味がわからないかと言えば、例えば、90年代以前の日本のように、貧困や公害を第三世界に押し付けることによって、豊かな社会を実現することができてしまうからだ。しかし、グローバル化の進展によって、先進国だけがそのような果実を受け取ることはもはや不可能となり、むき出しの資本主義がその正体を顕わにし、暴走をはじめた。そして著者は、一国社会主義ではやはりダメで、世界同時革命でなければならない、と明言する。昔、過激派のことをトロツキストと呼んでいたが、要するに著者はトロツキストということらしい。
 また、本著の中では、構造主義についても紹介されているが、西欧近代主義を相対化し独自の文化的パラダイムを認める構造主義と近代主義の亜流であるマルクス主義とが、どう折り合いをつけるのか、今一つよくわからなかった。さらに、女性や外国人労働者、開発途上国など、要はマイノリティを、「他者」という言葉で一くくりにし、最後に、「すべての地域の労働者よ、団結せよ」ではなく、「すべての地域の『他者』よ、団結せよ」なのだと結んでいるが、この辺のところも判然としなかった。
 一番興味をひいたのは、各章末のコラムである。ここには、マルクスは女癖が悪かったとか、マルクス一家は結構ぜいたくな暮らしをしており、マルクス自身労働者が嫌いだったなどと、従来のマルクス主義者ならけして語りたがらないエピソードについてあえて触れていた。

 著者は、団塊の世代より少し後の世代で、中学生の頃に興味を覚えて以来、ずっとマルクス一筋でこれまで来た。1970年代は大学にはマル経の学者たちが大勢いたが、徐々に減っていき、今ではそのおもかげすらない。いわば最も厳しい受難の時期にマルクス主義研究者として活動を続け、初志を貫徹してきたわけだ。だから、筋金入りであることには違いない。
 その後の著作を読んでいないので何とも言えないが、本書に関してはやはり難解かつ抽象的という印象が拭えない。著者の専門はマルクス主義経済学のはずだが、全体として思想・哲学的な方面への関心が強いような気がする。現在、資本主義の矛盾が一気に噴き上げていることは誰もが認めるとこだろう。しかし、ソ連を初めとする社会主義諸国の凋落によって、その先に社会主義や共産主義社会が見えてこないというのも、人々が感じているところだ。マルクスの預言が現実のものとなっている今、長年の研究成果を生かして、我々が今立っている足元と一歩先の未来を照らしだしてほしいと思う。


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無料相談会レポート

 10月19日(火)、文京シビックセンターにて、東京都行政書士会文京支部主催の無料相談会に参加しました。
 私が受けた相談の一つをご紹介します。

 相談者は、上品な感じの老婦人で、昔はさぞかしお綺麗な方であったろうと想像されました。しかし、ご主人に先立たれ、お子さんもいなく、現在は一人で暮らしているそうです。
 その方は、昔郊外に買った土地(地目:山林)があるそうですが、たった一人のごきょうだいの方に贈与の話を持ちかけたところ断られてしまい、今は誰も引き受け手がなくて困っているそうです。
 確かに田舎の土地、しかも山林となれば、不動産価格が大幅に下落しているため、ひどいところは平米当たり数十円などという場合もあります。登記手続きにかかる費用のことを考えると、もらってもかえって有難迷惑という場合もあるかもしれません。
 一方、山林はすでに底値を打ったという噂が流れ、中国人を中心に買いあさっているという話も聞きます。だから、とりあえず不動産屋さんに行って相談し、売却の可能性がないか尋ねてみてはいかがかとお話しました。
 それでも買主が見つからず、しかも、相続人の引き受け手がない場合、故人の遺産は国庫に帰属されることになります。そのときは、利害関係人や検察官の請求によって、相続財産管理人が選任され、相続人や特定縁故者がいないと確定した時点で、国庫に帰属します。
 具体的手続きに立ち合ったことがないので詳しいことはわかりませんが、請求がなければそのまま放置されるかもしれません。また、国庫に帰属されれば、荒れ放題にしておくこともできないでしょうから、国がどういう対応を取るかは今一つわからない面もあります。登記簿上不動産所有者が故人のままになっている例はいくらでもありますし、所有者が行方不明になっている場合も少なくありません。昔死んだはずの人の名が戸籍に記載されていることが、マスコミで報じられ騒がれましたが、それと同様のことが、不動産の世界ですでに起こっているのです。お一人様で亡くなる高齢者がますます増えていく中、今後、所有者不在の土地のことが社会問題化するかもしれません。

 「もし、誰も引き受け手がなかったとしても、ごきょうだいや甥姪の方に損害を与えることはありませんよ」
と答えると、ご夫人は、
「それで、安心しました」
と、ニッコリ微笑まれました。 
 どうやら、彼女にとって、そのことが一番の心配の種だったようです。しかし、その前に、「不動産屋さんに相談してみてくださいね」と念を押しておきました。
 今は、お元気なようだけど、10年後には健康上の問題や判断力の低下に伴う問題を抱えることになるかもしれないとふと思いましたが、相談内容とは直接関係なかったので、口にはしませんでした。
 ご夫人はていねいにお礼を述べると、美しいたたずまいで去って行かれました。



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ソビエト帝国の崩壊 瀕死のクマが世界であがく(小室直樹、光文社カッパ ブックス)

 9月4日、小室直樹氏が亡くなった。享年77歳であった。
 著者は、1981年の「ソビエト帝国の崩壊」によって、一躍有名になる。氏49歳の時であった。山本七平に「天才」と絶賛され、京大理学部数学科卒、阪大大学院経済学研究科、東大大学院法学政治学研究科、マサチューセッツ工科大学、ハーバード大学という華麗なキャリアを引っ提げての鮮烈なデビューであった。同著はベストセラーとなったが、その後矢継ぎ早に刊行された著書もヒットを重ね、先の山本七平や渡部昇一らに持ち上げられ、保守論客期待の星として注目を集めた。
 しかし、小室氏は本当に保守思想家だったのであろうか。確かに必要以上に戦争に関する記述が多く、軍事オタクの傾向は否めない。しかし、核武装を主張するわけでもなく、安全保障に対する考え方はむしろ常識的である。ちなみに、恩師には、高田保馬、市村真一、川島武宜、大塚久雄、また、尊敬する学者として丸山政男、森嶋通夫がおり、学界の大御所たちがズラリと名を連ねている。一方弟子には、橋爪大三郎、宮台真司、副島隆彦など、一癖も二癖もありそうな顔ぶれがそろっている。これらの面々を眺めても、小室氏が典型的な保守思想家というのは、どうも釈然としない。
 ところで、著者の声望を高めたのは、1991年ソ連が崩壊し、「ソビエト帝国の崩壊」が現実のものとなったことによってである。弟子の橋爪大三郎と副島隆彦は、「現代の預言者 小室直樹の学問と思想―ソ連崩壊はかく導かれた」を出版し、師の偉業を讃えている。しかし、これは少々買いかぶりすぎではないか、という気がしないでもない。
 本著では、平等のはずのソ連において資本主義社会以上の特権階級が存在し、また、自己目的化された軍事費の増大によって国民経済が圧迫されていることなどが指摘されている。しかしこれは、当時としても特に目新しい情報はなかったのではないか。さらに、ソ連においてすら、マルクス主義経済学の有効性が疑問視されていることにも言及している。そして、ソ連は基本的に資本主義が成熟する以前の農民社会であり、伝統的価値観としてのツアリズムが残っており、ニコライ2世がスターリンに代わっただけの話だというのだ。そして、フルシチョフのスターリン批判によってカリスマの権威が失墜し、急性アノミー(無規範状態)が起こっていると説く。しかし、ソビエト崩壊の原因をスターリン批判に求めるという見方は、ちょっと説得力に欠けるのではないか。実は、「文化的パラダイムの残存」、「カリスマの権威失墜」、「急性アノミー」というのは小室理論の三題噺といってもよく、「中国共産党帝国の崩壊」(1989)にもそのまま使われている。毛沢東を中華皇帝になぞらえ、人民革命は易姓革命だったと説くが、こちらの方は外れてしまったようだ。
 「ソビエト帝国の崩壊」は、一般向け本の処女作とあって、漢文調の小室節もまだそれほど際立っていないし、巻末には、参考文献がきちんと掲載されている。しかし、後年開花する小室節では、講談のような軽妙なテンポの文章スタイルが確立される。漢文調というと一見難しそうだが、「濫觴(物事の始まり)」というように説明が付されているのでかえってわかりやすい。また、巻末の参考文献はなくなり、文中、ときおり盟友の名前が出たりする程度である。「中国共産党帝国の崩壊」に至っては、主要な参考文献は「三国志」(しかも吉川英二版の)である。現代中国を論ずるのに、卑弥呼の時代の物語を引き合いに出すのだから、同業者からは失笑を買って当然であろう。しかし、長い間アカデミズムのど真ん中にいた者が、アカデミズムの作法について知らないわけがない。読者はあくまで大衆と考え、わざとてやっているのである。
 これを裏付ける事実として、カッパブックスを主戦場にしているということが挙げられよう。ちなみに、「ソビエト帝国の崩壊」以前に筆したもののほとんどが、学術論文である。私は元編集者だったので想像がつくのだが、ヒット作を出した小室氏に対して、複数の出版社から学術書のオファーがあったはずである。おそらく著者はそれをことごとく断ったのである。通常の学者なら、一般向けの本と学術書の両方を書こうとするはずであり、栗本慎一郎なども「パンツをはいたサル」で有名になった後、専門書も出している。
 先ほど少し触れたが、小室氏の著作の中では、「急性アノミー」がキーワードとなり、毎回登場する。これは憶測だが、小室氏自身アノミーに冒されていたのではあるまいか。規範崩壊は価値相対主義、すなわち、ニヒリズムに通じる。「作品としての社会科学」(内田義彦)という本があるが、小室氏にとっては、さしずめ「講談としての社会科学」といったところであろう。だからこそ論理性や実証性よりも、文体や面白みの方が重要なのであり、そのような道を選んでしまったからこそ、アカデミズムとは完全に袂をわかったのではないか。
 さらに妄想を言わせてもらうと、その背後には、小室氏自身の挫折があったのかもしれない。無論、著者ほどの才人であれば学者として生き残ることは容易であったろう。氏は、若い頃、大塚久雄に将来を嘱望されていた程の俊英であった。しかし、氏の望みはもっと高い所にあった。氏が「ソビエト帝国の崩壊」を執筆した時の年齢(49歳)は、ちょうど自分の先が見えてくる頃である。ノーベル賞が獲れるほどの実績が残せそうもないのなら、学者ではなく一般大衆を相手に一暴れしてみるのもいいのではないか。そう考えても不思議ではない。そして、その目論見は見事に成功した。しかし、学者としての道を自ら閉ざしてしまったことに対する悔いは、残らなかったとは言えば嘘になろう。
 著者の作品のタイトルには、「田中角栄の呪い」や「信長の呪い」など、「呪い」という文字がよく目立つ。これは、本当の意味での評価はまだ得られていないことに対する苛立ちの表れではないか。そしてこのことは、菅原道真や吉田松陰など、学問に身を捧げた者の魂が死後御霊になる場合がある、といったことを彷彿とさせる。氏の魂は、天国へと向かったであろうか。



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「なぜ日本は没落するか」(森嶋通夫、岩波書店)

 日本人二人がノーベル化学賞を受賞したニュースで、世間は沸き立っている。ところで、ノーベル経済学賞を受賞した日本人は、まだ一人もいないことをご存知だろうか。日本では経済学は、文系に位置付けられているが、実は「超」のつくほど理系の学問である。そのため、経済学部出身者の数の割には、適性のある人材がそれほど集まらず、一流の研究者が育ちにくい環境にあるのではなかろうか。しかし、今まで、ノーベル経済学賞の候補者として名前の上がった日本人が、全くいなかったわけではない。その一人が、森嶋通夫氏である。森嶋氏はロンドン・スクール・オブ・エコノミクス名誉教授で、数理経済学者として、ワルラス、マルクス、リカードの理論を数理化させたことで世界的名声を博した。先日亡くなった小室直樹氏が、日本の経済学者の中で唯一尊敬しているのが、この森嶋通夫氏である。森嶋氏も2004年に他界し、日本人初のノーベル経済学賞の夢は途絶えた。
 このような経歴をもつ著者は、恐らく冷徹な合理主義であろう。そして、数式の散りばめられた、難解な議論が展開されるのであろう……。そんな思いがよぎり、途中で投げ出すことを覚悟で、恐る恐る本書を紐解いた。しかし、この予想は杞憂に終わった。文章も非常に平易で、数式もほとんどなく、これなら私でも理解できるとホッと安堵した。そして森嶋氏は、冷徹な合理主義者どころか、維新の志士の如き熱い情熱のたぎる、愛国者だったのである。
 書名が示すように、著者は日本の将来について、悲観的な予測をしている。著者は資本論を数理化させたことで名高いが、けしてマルクス主義者というわけではなく、マルクスの言う下部構造は経済ではなく、実は人なのだと説く。50年後の未来を予測するには、経済学はあまりに未発達だが、しかし手がかりがないわけではない。それは、50年後にどういう日本人が主要な分野で活躍しているか、ということである。そして、そのような観点から眺めると、きわめて悲観的な見方にならざるを得ないというのだ。
 詳細は本著に譲るが、要するに著者は、学生たちが幼稚なことを大声で話しながら闊歩するキャンパスの風景に絶望しているのだ。森嶋氏の持論によれば、人間が最も成長できる時期は、10代の終わりからせいぜい20代の初めにかけてまでである。そして、この時期を、無為に過ごさせてしまっている現在の日本の大学制度には、根本的な欠陥があると見ている。また社会には、一部の優秀な人間たちが牽引していくという側面があるが、今日の日本は、エリート不在の状況になってしまっており、このことはきわめて重大な問題であると指摘する。
 これらの議論を踏まえて、著者は、自分自身が最も成長しえた青春時代のエピソードを長々と紹介する。当時、森嶋氏は、友人の寺田順三氏と毎日のように議論を戦わせ、しかも連戦連敗であったという。しかし、そのことが知的鍛錬となり、何よりの成長の糧となっていた。そして、自分を導いてくれたのは、高田保馬氏(1883~1972 著名な社会学者)や青山秀夫氏(1910~1992 経済学者)ではなく寺田順三氏であったと、恩師に対してやや失礼な発言まで飛び出していた。
 私は読んでいる最中、この寺田順三氏のことが気になってしまい、パソコンの前まで行き、検索してみた。しかし、同名のイラストレーターのことしか出てこない。そして、このエピソードの最後で、ついに種明かしがされる。寺田順三氏は、後年、土建会社の社長になったというのだ。
 私は唖然としてしまった。若き日の著者を連日打ち負かしたほどの相手であれば、当然、碩学になっていたであろうと想像していたからだ。もし経済界に身を転じたとしても、財界トップになっていたというのならまだわかる。しかし、土建屋の親父と言うのは……。
 よく考えてみれば、この方が遥かに現実的だ。しかし、多くの場合、功なり名を遂げた者が過去を回想するとき、有名人同士の出会いについてのみ焦点を当て、物語を膨らませていくという暗黙のドラマツルギーがあるような気がする。これには読者サービスの一面もあるが、権威主義の臭いもする。これを見事に無視してくれたため、読者に強烈な違和感を与えた一方、我々がつい見過ごしがちな先入観や偏見に気づかせてくれたのである。そして、著者の飾らぬ人柄に、深く感銘を受けたのであった。
 著者が、教育改革とともに、没落から救う方法として提起したのは、東北アジア共同体構想である。本著が刊行されてから10年になるが、現時点で、この構想が実を結ぶ可能性があるのかは、ちょっと判断しがたい。さらに付記では、社会科学の暗黒分野として、カルト教団の問題を取り上げている。著者がもっと若ければ、暴力団、マフィア、新宗教の教祖、元軍人、スパイといった、従来のモデルからは排除されていた、合理的行動を仮定できない領域にチャレンジしていたのだろう。
 晩年の著作と言うこともあって、シャープな論理性と言うのは、それほどは感じなかった。しかし、日本を愛する思い、そして、旺盛な好奇心には終始圧倒される思いであった。森嶋氏の遺志を受け継ぎ、ノーベル経済学賞を受賞する日本人は、いずれ現れるのであろうか。



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乱世を生きる―市場原理は嘘かもしれない(橋本治、集英社新書)

 私には、著者にまつわる不思議な思い出がある。小学生の頃、大橋巨泉司会の「11pm」という番組で、東大生が出てきたことがあった。子どもなので、何を話しているかはさっぱり理解できなかったが、後年、その中の一人が橋本治氏であることがすぐにわかった。自慢ではないが、私は人の顔を覚えるのは苦手である。一度会ったことのある人間と、別のところで待ち合わせすることですら、不安を覚えるくらいである。その私が、十年近くも経ってから、しかもテレビで一度だけ見かけた人物の顔をはっきり覚えていたというのは奇跡に近い。ちなみに、その時、東大生は3人ぐらいいたと思うが、他の二人については全く記憶がない。橋本治氏と言えば、東大駒場祭で、「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを考えついた人物として知られている。その時の番組は、恐らくこの時のことを取り上げたものと推測される。
 かと言って、その後、私が、橋本氏の熱烈な読者になったのかと言えば、そんなことはない。大分昔に、『桃尻娘』や『桃尻語訳枕草子』などを少し読んだくらいである。しかし、気になる人物であり続けたことには変わりない。
 今回、久かたぶりに著書を紐解いたわけだが、この本は、『「わからない」という方法』、『上司は思いつきでものを言う』に続く三部作の完結篇に当たるものだという。タイトルからもわかる通り、全編、経済について論じられている。いわば、経済に門外漢である著者が、素人の切り口から専門家が気づきにくい問題について語っていこうという趣旨らしい。その中で、「わからない」という言葉を連発する。第一作が『「わからない」という方法』だったように、どうやらこれが著者の知的戦略らしい。しかし、残念ながら、この戦略が成功しているとは思えない。例えば、エコノミストは「世界経済が破綻したら、どうなるだろう」などいうことは絶対に言わない、と断言しているが、しかし金融系シンクタンクのエコノミストならともかく、大学に職を得ている者なら、そんな制約は特にないはずだ。
 例えば、中谷巌氏の『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社)という本があるが、著者は、ハーバード大学でアメリカ流の経済学を学び、明快な論理性に魅了された。そして、日本に戻ってきてからもこの経済学に疑問を持たず、構造改革推進派の立場から竹中平蔵氏らと一緒に政府委員を務めたりもする。しかし、格差社会の到来を目の当たりにし、それが誤りであったことに気づき、転向する。中谷氏は冒頭で、本書は懺悔の書であると述べ、カール・ポランニー『大転換』等を引いて、市場そのものに疑問を投げかけている。蛇の道は蛇というが、やはり表も裏も知り尽くした者の方がより根源的な批判ができるのではないか。アメリカのジョセフ・E・スティグリッツなども、ノーベル経済学賞を受賞し、世界銀行の副総裁を務めたこともあるが、過激な論陣を展開している。
 ところで、橋本氏も認めるように、本書では途中でよく脱線し、そのことが読者の理解を妨げている。経済を論じている最中、いきなり小学生時代のバレンタインデーのチョコレートの話へと話題が飛ぶ。最後まで読み進めると、橋本氏には自分が少年時代を送った昭和30年代への郷愁があり、これは当時の経済システムを象徴するための例示であったことに気づく。恐らく橋本氏のファンなら、そのことを押さえつつ読み進めるのであろうが、その前提を知らぬ者にとってはいたずらに混乱させられる。あとがきには、2週間で書き上げ、調べものもしなかったと、悪びれずに書かれているが、全くそういった感じの内容なのである。
 第1章では「勝ち組」と「負け組」のことが話題として取り上げられ、自分は「負け組」であると宣言する。なぜなら、借金があるからだという。そして、例の「わからないという方法」によって、「勝ち組」と「負け組」ってよくわからないと言いだす。しかし、橋本氏の属する物書きほど、「勝ち組」と「負け組」がはっきりしている世界も珍しいのではないか。それを裏付けるように、著書プロフィールの欄には、東大国文科卒業を皮切りに、講談社小説現代新人賞佳作受賞、第9回新潮学芸賞、小林秀雄賞、第18回柴田練三郎賞受賞と言った文字が、小さなスペースの中所狭しと並んでいる。これが「勝ち組」の証明でなくて何であろう。
 このように橋本氏は、物書きの世界では、まごうかたなき「勝ち組」である。そして一定の固定読者層を持っているがゆえに、新しい読者にとっては全く不親切な本を、平気で出版することが許されるのである。これは、よく言われるブランドバリューの話である。500万円以上もする高級腕時計の原価は、たかだか2万円程度らしい。同様に、橋本氏の本にもブランドバリューがあるため、労働価値が低いにもかかわらず、それなりによく売れるのである。そして、このような空虚な価値が過大評価されてしまう仕組みこそが、バブル経済に通じるのである。
 ところで、橋本氏の『桃尻語訳枕草子』は傑作である。これは、古典作品に精通した氏ならではの名訳であり、これを完成させるためには、多くの時間が費やされたに違いない。物書きとは、本来こうあるべきである。初心に立ち返り、内なるバブルと訣別してほしい。



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「マルクスの逆襲」(三田誠広、集英社新書)

 今週、NHK教育テレビで、「一週間de資本論」が放送された。『マルクスだったらこう考える』(光文社新書)の著者、的場昭弘を中心に、森永卓郎、湯浅誠といった多彩なゲストが登場し、資本論を今日的問題に引きよせて解説し、大変興味深い内容となっていた。ソビエトが崩壊した後になってから、グローバリズムと金融資本主義が世界中を席巻し、マルクスの予言りになってきたというのは皮肉以外の何物でもない。番組で紹介された通り、マルクスの指摘は慄然とするほど現代の状況を言い当てている。以前より私はマルクスは、モーゼ、イエス、マホメッド、ノストラダムスといった預言者の系譜に連なる人物ではないかと考えていたが、いよいよその思いを深くしている。
 そんな折、本書を手にした。まず『マルクスの逆襲』というタイトルが刺激的である。しかも著者は三田誠広……。若い人は知らないかもしれないが、『僕って何』で鮮烈なデビューを果たした芥川賞作家である。
 しかし、まえがきには、古老が昔語りをするように、若い人に自分たちの経験した学生運動について伝えていきたいと書かれており、思わずのけぞってしまった。私にとって著者は、新世代の旗手といったイメージが強かったからだ。団塊の世代の著者はすでに60代であるが、古老にたとえるには早すぎる。
 ちなみに私は、三田より一回り下なので、大学はすでに鎮静化しており、学生運動にまつわる話を聞く機会もあまりなかった。この本では、赤ヘルを初めとする三派全学連に関する基本的な解説がなされており、その点では大変勉強になった。
 当時、団塊の世代のほとんどは、マルクス主義が正しいと信じていたらしいが、その後、就職してから、自分の価値観をどのように社会に適応させていったかについても、本書では書かれている。大体次のようなステップを踏んで、マルクスへの信仰を捨てて行くのだと言う。まず、自分たちが理想視していたはずの社会主義国家が、どうも日本より貧しいらしいということに気づきだす。次に、赤軍派などによるテロ事件が報道され、これにはついていけないという思いを深くするとともに、このようなテロ行為がマルクス主義そのものから生じる問題ではないかという疑問が湧いてくる。そして、ソビエトの崩壊がダメ押しとなって、マルクス主義信仰を完全に捨てることになる。
 このような棄教のステップは、多くの団塊の世代に共通するものではないだろうか。逆に言えば、1991年のソ連崩壊まで、マルクス主義を捨て切れなかったということになる。そして著者は、実は、日本こそが計画経済を実現させたマルクス主義国家だったことに、はたと気づいたというのだ。まるで、「幸せの青い鳥」のような結末だが、これはちょっといただけない。この結論は、芥川賞作家の決め台詞にしてはあまりにも陳腐すぎる。確かに日本独特の護送船団は計画経済に近いものだったのかもしれない。しかし、それが似非マルクス主義であったことは、小泉構造改革でなし崩し的に格差社会を招来させてきたことからもうかがえる。
 いずれにせよ問題は、今日まさに「マルクスの逆襲」とでも言うべき事態に立ち至っているということを、かつてのマルクス主義者たちがどのように受け止めているのか、ということである。結局、三田の抱いている思いとは、次のようなものであるという。すなわち、社会に貢献する優良な企業に投資したり、農業の再生に尽力したり、家族や郷土を大切にして、グローバリゼーションに逆行する行動に各人が心がけ、生きがいのある社会を構築することだと言う。
 誠に健全で、常識的な結論だが、正直言ってがっかりした。前項の「文明の衝突」でも触れたが、これは、功なり名を遂げ安定した社会的地位を得た者の大人の感覚であり、破壊本能を制御できない若者たちや、多額の借金を抱えて夜逃げしたり、野宿している人々の思いとは、全くかけ離れている。明日首をくくろうとしている者に対して、このようなメッセージを投げかけたとして、何の役にも立つまい。マルクスは、19世紀のロンドンで同じような光景を目の当たりにし、搾取されている労働者たちに対して革命を呼びかけた。もちろんその後の歴史を紐解けば、軽々に同じ言葉を口にすることはできないであろう。しかし、「マルクスの逆襲」と言うからには、もう少しラディカルなメッセージがほしかった。



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「文明の衝突と21世紀の日本」(サミュエル・ハンチントン著 集英社新書)

 文明の衝突論が話題を呼んだのは大分以前のことなので、遅すぎた感があるが、ようやく目を通すことができた。この本は、世界的ベストセラーとなった『文明の衝突』(集英社)の要約版であるが、この思想を知る上で十分なボリュームを持っている。また、冒頭に「21世紀の日本の選択」という章を設け、日本の読者にとってとりわけ興味深い内容となっている。
 冷戦によるイエデオロギーの対立が終焉し、アメリカ一人勝ちの状況の中で、フランシス・フククヤマの「歴史の終わり」が注目を集め、アメリカ流資本主義が人類史の最終形態であるかの如き幻想が振りまかれた。しかし、それもほんの束の間のことで、アメリカの影響力は相対的に減少しはじめ、格差社会の激化によりグローバリズムの本質的問題点が浮き彫りとなり指摘されだした。そういった中で登場したのが、この文明の衝突論である。
 これは、イエデオロギーによる東西二大陣営による対立が終わった後、諸国は文明という新たなカテゴリーの下に集結し、異質な文明間の対立・抗争が頻発化するというものだ。ハンチントンの言う文明とは、要するにアイデンティティを担うもので、その中核的要素は宗教である。著者は、世界の主要文明を、①西欧文明、②東方正教会文明、③中華文明、④日本文明、⑤イスラム文明、⑥ヒンドゥー文明、⑦ラテンアメリカ文明、⑧アフリカ文明、の八つに分類している。これらの多くは国境を横断して広がっているものだが、日本だけは例外で、国境と文明の範囲が一致している。このような国は、他にはエチオピア(コプト正教会)とハイチ(ブードゥー教)ぐらいだと言う。
 著者は、イスラム文明の戦闘性に警鐘をならしてきたが、これは2001年の9.11の同時多発テロによって現実のものとなる。また、イスラム教徒がジハードなどと言って戦闘的になりやすいことの背景には、平均年齢の低さがあるとも指摘する。人口に占める若年層(15歳から24歳)の割合が20パーセントを超えると、暴力や紛争がエスカレートし、社会は不安定になるのだという。
 さらに、ハンチントンは、一極多極世界というシステムを提唱し、これによって世界の動きを読み解こうとした。世界は、アメリカという超大国と、ヨーロッパ、ユーラシア、東アジア等の地域大国と、ナンバー2の国、またその他の国、という四つのレベルから成り立ち、この構造によって支配されているというのだ。東アジアにおける地域大国は日本か中国だが、ハンチントンは中国の方がその可能性が高いと見ている。いずれにせよ、一極多極世界のシステムが通用するのは今後30年ぐらいのことで、その先はどうなるかわからないということだ。
 ハンチントンの文明の衝突論は論争を呼んだというが、私にとってはきわめて説得力のある説であり、ほとんど違和感がないと言ってもいい。日本が中国の下になるというのは、少し残念な気もするが、それはすでに現実のものとなりつつある。経済偏重の見方が世の中にはびこり、グローバリズムが席巻し荒廃させている中、文化や宗教、価値観を基軸としたパワーが、世界を動かす駆動力になるというのは、むしろ望ましいことのようにも思える。
 ところで、文明の中核的要素は宗教というが、日本文明の場合は、いったい何を意味するのだろうか? 私には、「武士道」と言った言葉が思い浮かんでくるのだが……


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