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行政書士のプロローグ & モノローグ

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天よ、ダイスケを守り給え!

 松坂大輔ではない。私が、ずっと気になっていたのは、守大助である。
 2001年に起こった、仙台市の北陵クリニック筋弛緩剤点滴混入事件は、約10人を殺害した凶悪事件としてマスコミにも大きく取り上げられ、当時準看護師だった守大助氏(29)が、この事件の容疑者として逮捕された。
 その後、テレビ朝日の「スクープ」が、この時の捜査がまったくのデダラメであり、事件そのものが存在しない「幻の事件」であったことを、精緻な取材によって明らかにしている。その具体的な内容については、インターネット上で閲覧できると思うので、ご存知でない方は是非確かめて頂きたい。
 昨年の鹿児島県の選挙違反事件や周防正行監督の映画「それでもボクはやってない」など、冤罪事件への社会的関心が高まってきているので、当然この事件も、無罪判決が下りるものとばかり思っていた。
 ところが、2月25日、最高裁が上告を棄却し、1、2審の無期懲役判決が確定したというのだ。
この事件は、犯行の目撃者もなく、自白を有力な証拠とする典型的な冤罪事件である(物的証拠はあるが、鑑定結果には疑問がある)。長期間の強度の緊張を強いられる取調べの中では、自白が客観的証拠となりえないことは、先の事件でも明らかになったはずではないか。にもかかわらず、「筋弛緩剤を投与したことによる犯行との認定に誤りはない」などという馬鹿げた判決がよく下せたものだと思う。
 最高裁判所の判事は、もう一度憲法の次の条文をよく噛みしめて欲しい。
「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、また刑罰を科せられない」(憲法38条3項)
 そしてもう一つ、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則も……

 自白を唯一の証拠とすることが何故問題なのか。これを解き明かしてくれる画期的名著がある。それは、
浜田寿美男「自白の心理学」(岩波新書)
である。
 被告人がなぜ自白してしまうのか。これについては、鹿児島の事件のように、孫の名前に踏み絵をさせるような強引な捜査の実態が明らかになってきたので、比較的理解しやすいであろう。
 問題はむしろ、無実の被告人から、やってもいない事件に関する膨大な自白調書をなぜ取ることができるのか、という点である。
 この点について、浜田は、「共同作話」という仮説によって、この問題を見事に解き明かしている。
 すなわち、取調室においては、早く解放されたい被告人と早く事件を解決したい取調官の利害は一致しており、共通の利害をもつ二人が嘘の物語を互いに協力し合いながら創作し、詳細な自白調書が作りあげられていく、というのである。
 しかし、無実の被告人の自白調書には「無知の暴露」が必ず存在し、真犯人の自白調書には「秘密の暴露」が存在するので、二人のやりとりを録音したテープさえあれば、任意の自白かどうかの区別は必ずつくと、浜田は指摘する。
 現在、裁判員制度をめぐって、ビデオ録画やテープ録音による「取調の可視化」の問題が注目を浴びているが、もしこれが実現すれば、冤罪事件の多くはなくなるということだ。

 浜田は、甲山事件などに実践的にも深くかかわってきたが、彼にはもう一つの顔がある。それは発達心理学者としての顔であり、特にアンリ・ワロン(1879~1962、フランス)の研究では第一人者である。ワロンは、ピアジェのような個人主義的心理学とは対極にある、関係性を重視した理論家で、障害児教育分野にも多大の影響を与えている。私はかつてその分野の出版社に勤めていたので、氏に直接お会いし話を聞いたことがある。すでに売れっ子だった氏の本の企画こそ実現できなかったが、甲山事件の話も直接うかがえ、貴重な経験となった。
 浜田のユニークなのは、自分自身がかかわってきた二つの分野を結びつけ、統一的に論じたという点にある。
 ワロンは発達における関係性を重視した学者であるが、人間の最も原初的なかかわりは、母子関係にある。母子関係はある意味、母と子が共同して一つの物語を作り上げていくことに他ならず、これは共同作話に似ていないかと浜田は指摘する。すなわち、共同作話は、取調室の閉じた世界における特殊な出来事ではなく、人間の普遍的な営みの一つであると、彼は考えるのである。

 ところで、私が、冤罪や浜田の共同作話の理論に強く引き込まれるのには理由がある。それは、私自身に同種の体験があるということである。幸い前科こそないが、今でもそれは、私にとってトラウマとなっている。
 小学校2年の時、私のクラスの担任は、美しい美術教師であった。
彼女が教える図工の時間、ある事件が起こった。それは授業で用いた粘土が、手洗い場の排水溝を詰まらせ、シンクがあふれるほど水が溜ってしまったのだ。
 その時、何故か私が犯人にされてしまい、目撃者まで何人か現れた。そして、私は、その教師に呼び出され、詰問された。しかし身に覚えはないので、私は潔白を主張した。しかし教師の口から、驚くべき言葉が飛び出した。
「だって、みんながそう言っているじゃない」
 結局私は、排水溝を詰まらせた犯人と言うことになり、教師から頬をたたかれた。そして、他のクラスの担任のところに行って、迷惑をかけたことを詫びるように、と言い渡されたのである。
 それ以来、大好きだった担任のことが、嫌いになってしまったことは言うまでもない。
 その時のことを再び振り返ってみると、教師に叱られているうちに、途中から次第に、実際に自分が粘土を排水溝に詰めたような気分になっていったことが思いだされるのだ。すなわち、無意識のうちに粘土を詰めてしまったのだ、と自分自身に無理矢理納得させようとしていたのだ。
「自白の心理学」の中には、これと全く同じことが、追い込まれた被告人の心理状態として描かれている。

 当時私は小学校2年生であり、民法上の意思能力をようやく獲得した程度の判断力しかもちあわせていなかった。そして、このような意識レベルの状態だと、簡単に自白してしまい、さらにその犯行を自分がやったと思いこんでしまうことが、この時の経験からも推測される。
 ゆえに、もし判断能力が不十分な人が、冤罪事件に巻き込まれたとしたらひとたまりもなく、容易に犯人に仕立てられてしまうであろうことは、想像に難くない。
 しかし、未成年や心神喪失と心神耗弱の人の場合、刑事上の責任能力をもたず、したがって冤罪事件にも巻き込まれない、と一般には考えられている。しかし、このような常識はもはや通用しないということを思い知らされる事件が、つい最近起こった。

 2004年、吉田清さん(56)が、二つの強盗事件で逮捕・起訴された。吉田さんは宇都宮市に住む重度の知的障害者であったが、刑事上の責任能力がないことは全く考慮に入れられず、それどころか、取調官が吉田さんの手を勝手に動かし、虚偽の自白調書を書かせられてしまったのである。
 その後、真犯人が見つかり、吉田さんの無罪は確定した。そのため吉田さんは、精神的苦痛を受けたとして、国と栃木県に対して国家賠償請求訴訟を起こした。
 2月28日、宇都宮地裁は、国と県に対して100万円の支払いを命じる判決を言いわたした。判決では、「警察官が知的障害者の迎合的特性を利用し、被害者供述に合致した虚偽の自白調書を作成した」ことが認定され、原告の主張がほぼ受け入れられた。

 この事件は、新聞等でそれほど大きくは取り上げられていない。しかし、他の冤罪事件とは質的に全く異なる、きわめて悪質な権力犯罪とは言えないだろうか。
 「自白の心理学」の中で浜田が取り上げた事例では、取調官自身も被告人が犯人だと信じており、厳しい取調べを行なったのは、仕事熱心さのゆえか、あるいは正義の実現のためという思いが働いていたのかもしれない。しかし、本件では、取調官は吉田さんの無罪を知りつつ、知的障害者の弱点を利用して、罪をなすりつけて事件を終結させようとしたのではないか。判決文も、そのことを認めているように見える。ならば、取調べにかかわった警察官の罪は問われないのであろうか。もしこのように重大な権力犯罪が不問に付されるとしたら、このような行為が常態化しているほど、警察組織が腐りきっていることを、自ら認めたことになりはしないか。
 前前回、「星野監督、それは氷山の一角です」の中で、悪徳経営者が知的障害者を利用し、食い物にしていた事例を取り上げたが、警察もまた同じようなことをやっていたのである。
 本件ではたまたま、真犯人がみつかったからよいようなものの、犯人が見つかって無罪が確定するのはきわめてレアケースだと言われている。だとすれば、知的障害者が嘘の供述書を書かされ、有罪が確定してしまった事件が他にもあるのではないだろうか。
 浜田は、冤罪はけして珍しい事件ではなく、年間恐らく数百件は起こっているだろう、と推測している。非常に大雑把な数字だが、調査が行われていないため、正確な実態が把握できないのだそうだ。これもまた、驚くべきことである。
 冤罪の闇は、今も深く広がっている。
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